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「お、もうこんな時間か……」

　腕時計をちらりと確認しつつ、朝倉純一は慣れた手つき
でポケットから定期券を取り出すと、それを運転手に見せ、
停留所に停まったバスから降りる。

　天枷研究所前のバス停――学園の生徒時代には馴染みの
薄かったこの場所も、今ではよく訪れる場所となっている。

　というのも、天枷研究所に純一の恋人、天枷美春が勤め
ており、仕事帰りに彼女を迎えに行くのが半ば習慣となっ
ているのだ。
#NEXT

「流石に通勤時間帯とはいえ、一本逃すとちと遅くなっち
　まうな」

　純一は研究所へと歩き出す。

　道の両脇の景色も、ほんのひと月前まで桃色だったとい
うのに、今や緑が青々と茂っている。
#NEXT

　ざざっと純一の周りを薫風が吹き抜ける。

　こういう爽やかな日は、少しばかり体を動かすのもやぶ
さかではない。

「少し急いでやるか。遅刻だのペナルティだの言われたら
　かったりいし」

　最近ようやく様になってきたネクタイを緩めながら純一
は足を速めた。
#NEXT

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　研究所の中に入ると、独特の精密機器のニオイと無機質
な蛍光灯の光が純一を出迎える。

　もはや顔パス同然になっている純一は守衛さんに会釈を
ひとつすると、美春の所属している研究室を目指す。
#NEXT

music bgm003

「おー、朝倉じゃないか」

　しかし、純一はこの研究所の中でも数少ない聞き知った
声に呼び止められる。

　白衣のボタンを留めずに着崩した女性がつかつかとやっ
てくる。

「あー、暦先生。ども」

　純一は恩師である佐伯暦――旧姓白河暦にぺこりと頭を
下げる。
#NEXT

「朝倉は天枷のお迎えか。ごくろうごくろう」

　かかっと暦先生が笑う。

「ええ、まぁ。暦先生はまだ仕事っすか？」

「ん？　あぁ、まぁね。ここに復帰してからは溜まってい
　たデータの処理やら何やらで休む暇もない。学園時代の
　ように生徒の相手をしている方がまだ楽だったよ」

　自嘲気味に笑うと、暦先生は胸ポケットに手を入れる。
#NEXT

「吸っていいか？」

「それはまぁ構いませんけど、こういうところってだいた
　い禁煙ですよね？」

　純一が辺りを見回すと、案の定タバコのロゴに赤いバッ
テンマークが書かれた表示が貼られている。

「まーね。最近のご時世というか、研究所内は何処も彼処
　も禁煙でね。でも、私タバコやめたの。そーゆーわけで、
　口が寂しい時は専らこれさね」

　そう言って暦先生は懐からタバコ型の禁煙グッズを取り
出すと、それを口に咥える。

　紫煙は出ないというのに、相変わらず不味そうに息を吸っ
て、そして吐く。
#NEXT

「なぁ、朝倉」

「なんすか？　暦先生」

「いい加減、その『先生』っていうのはやめないか？　君
　はもう私の生徒ではないのだし」

「そうは言っても暦先生は暦先生だし……。じゃあ、逆に
　なんて呼んだらいいですか？」

「ん？　別に『様』をつけろとは言わないし、好きに呼べ
　ばいいじゃないか」
#NEXT

「ふむ……」

　そう言われると困ってしまう。

　姓が変わった事もあって苗字で呼ぶには些かの抵抗があ
るし、下の名前を呼び捨てにするのもなんだかおかしい。

「じゃ、親しみを込めて“暦ちゃん”なんてどうです？」
#NEXT

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「…………」

　ピシッと音がしそうな勢いで“暦ちゃん”の額に青筋が
浮かぶ。

「朝倉……いい度胸じゃないか。学園時代からの習わしで
　ね、私を『ちゃん付け』で呼んだ無礼者は例外なく私の
　研究に協力して貰うことになっているんだよ……」

　口調は穏やかだが、背後には真っ黒なオーラがにじみ出
ている。

「じょ、冗談ですって。あははは……」
#NEXT

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「ったく……。もういいよ、先生でもなんでも好きにしな」

　呆れたように言うと、暦先生はガシガシと頭をかく。
#NEXT

「あ、そうだ」

　冷や汗をかいたところで、純一は大事な事を思い出す。

「そういえば美春って、何してます？　そろそろ出てきて
　もおかしくない時間だと思うんですけど……」

「ん？　天枷ならまだ研究室に居るぞ」

「……マジすか」

「なんだ、知らなかったのか。てっきり知っていて待って
　るのだとばかり思っていたよ」

　すまない、といった様子で暦先生は片目を瞑る。
#NEXT

「ホントはもう終業時間はとっくにまわってるんだが、あ
　の子もなかなか仕事熱心なところがあるからね。せめて
　待ち人の話し相手ぐらいにはなってやろうかと思ってた
　んだが」

「いえいえ。だとしたら、丁度いい時間潰しになりました
　よ」

「そうか、なら良かった。お詫びといっては何だが、私が
　天枷を呼んできてやろう」
#NEXT

　暦先生は、純一の肩をぽんと叩くと、白衣を翻して背を
向ける。

「朝倉はこの先の喫茶スペースで待っているといい。あそ
　こなら座れる場所もある」

　顔だけ振り返ってにかっと笑うと、そのまま暦先生は行っ
てしまった。
#NEXT

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「そんじゃ、俺も行くかな」

　純一は暦先生の言葉通りに、喫茶スペースに向かうこと
にする。

　普段は憩いの場であろうこのスペースも、終業時間を過
ぎているせいか、閑散としている。

　純一は手近な椅子のひとつに腰掛けると、特にすること
もないので、ぼーっと美春を待つことにする。
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　しばらくすると、ぱたぱたと足音らしきものが通路に響
く。

　純一が音のする方を見ると、美春が申し訳無さそうに、
しかしそれ以上に嬉しそうに駆けて来た。
#NEXT

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「朝倉せんぱーい、お待たせです」

「おう、すっごい待ったぞ」

　本当は自分の方が遅刻を覚悟していたのだが、それはそっ
と胸の奥にしまっておく事にする。
#NEXT

「あはははは……、研究に没頭しすぎて先輩が来る時間を
　すっかり忘れてました……」

「それはまぁいいけど。美春、おまえ白衣のままじゃない
　か。そのまま帰る気か？」

「えーっとですね、これにはワケがありまして……」

　美春はきっちりと着こなしている白衣の袖をわたわたと
させる。
#NEXT

「先生がいきなり『おい天枷、早く喫茶スペースに行かな
　いと、恋人が愛想尽かしてバナナを愛しだすぞ』なんて
　言うので……」

「で、着替えもせずに、すっ飛んできたと？」

「はいっ！　美春としてはバナナを愛する先輩を愛するの
　もまた一つの愛の形だとは思ったんですけど、やっぱり
　先輩には美春を一番に想って欲しかったのですよ」
#NEXT

「美春……、おまえ」

「なんです？　朝倉先輩」

「……すっげー恥ずかしいこと言ってるぞ」

「え？　……、あっ……あぅ」

　自分の発言内容を思い出してか、美春は耳から蒸気を出
しそうな勢いで赤面している。

「はぁ……。ったく“暦ちゃん”め」

　純一は事の首謀者に小さく毒づくが、良いことを聞けた
ので、まぁよしとする。
#NEXT

「あのー……朝倉先輩」

「ん？　どした」

　いつの間にかオーバーヒートから復帰していた美春の両
手には、それぞれ湯気を立てる白と黒の液体の入ったカッ
プがあった。

「お詫びといってはなんですが、これをどうぞ」

　美春から黒い方――ホットコーヒーの入ったカップを受
け取る。

「お、サンキュ。ところで美春が持ってるのは何なんだ？」
#NEXT

　純一はもう片方の、甘い匂いを湯気とともに立ち上らせ
ているカップを指差す。

「さっすが朝倉先輩、よくぞ聞いてくれました！　これは
　『ホットバナナセーキ』です！」

　じゃじゃーんと美春は自分のカップを高く掲げる。

「よくそんなもの置いてるな……」

　以前一度だけ桜公園の自販機で買ったことがあるが、他
では見かけないこの珍品は一体どこからやって来るのだろ
う？
#NEXT

「はいっ！　美春が無理を言って入れて貰ったんです。も
　う少ししたらアイスバナナセーキになるんですよ♪」

「…………」

　まさかこんなところにもバナナ帝国の侵略の手が伸びて
いるとは……。

　バナナ帝国民、恐るべし。
#NEXT

「ところで美春、そろそろ座らないか？」

　このまま放っておけばアツくバナナを語りだしそうな美
春に、純一は自分の隣を勧める。

「えへへ、それでは朝倉先輩のお言葉に甘えて」

　美春はひょいと白衣の裾を翻すと、純一の隣の椅子に腰
を下ろす。
#NEXT

「ん……？」

　立っている時は分からなかったが、隣に座る美春の白衣
の右ポケットが不自然な膨らみ方をしている。

「美春、そのポッケの膨らみは何だ？」

「あぁ、これですか」

　美春がゴソゴソとポケットをまさぐると、中から見覚え
のある直方体が出現する。
#NEXT

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「あ……」

「はい、朝倉先輩もよーくご存知のオルゴールです」

　それは、美春ではない美春と一緒にタイムカプセルから
掘り出した、幼い頃に美春に贈った想い出のオルゴール。
#NEXT

　純一と、美春と、もうひとりの美春とを繋ぐ大切な品。

　美春はオルゴールのフタを開けると、中からねじ巻きを
取り出す。

「美春は、お仕事中はできるだけこのオルゴールを手放さ
　ないようにしているんです」

　きりきりと美春がねじを巻く。

「美春が毎日毎日研究しているのは、美春……ううん、ミ
　ハさんにもう一度会いたいからなんです。もう一度会っ
　てまた仲良くなりたい。それが美春の夢なんです」
#NEXT

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　ねじを巻き終えたオルゴールから、懐かしい旋律が奏で
られる。

「そっか……。その夢、叶うといいな」

「はいっ！　……でもミハさんに会えたら会えたで複雑な
　思いも美春の中にはあるんですよね」

「……美春に複雑な思考なんてあったのか？」

「あーっ！　先輩ヒドいです！　美春にだって乙女心はあ
　りますよ」

　美春がぷっくりと頬を膨らませる。
#NEXT

「で？　その乙女心とやらは？」

「ズバリ、朝倉先輩がウワキをするかも、という点です」

　ピンと指を立てて美春は純一を覗きこむ。

「……はい？！」

　純一は思わず素っ頓狂な声をあげる。
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「だってそうじゃないですか。ミハさんはかつて先輩が愛
　したひとなんですよ？　もう一度先輩の前に現れたら、
　先輩のハートがなびいてしまうかもしれないじゃないで
　すか？」

「ジョークにしてはなかなかキツいこというな……、美春
　さんよ」

「あはははは、でも美春とミハさんが一緒に並んでいたら、
　先輩が美春を選んでくれるか、正直不安です。だって先
　輩には『前科』がありますから」

「おまえなぁ……」

　そうしてふたり笑い合う。
#NEXT

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　笑い声が途絶えたところで、丁度オルゴールの演奏も終
わってしまい、ふたりを束の間の沈黙が包み込む。

「…………」

　美春は伏し目がちにオルゴールを見つめ、その縁を大事
そうにそっとなぞっている。

　いつも元気なわんこがしゅんとしているのはどうにも居
心地が悪い。

　その原因の一端が自分ともなれば尚更だ。
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「……ったく、かったりいな」

　純一はカップを置くと、立ち上がる。

「美春」

　純一は美春の方を向かずに話す。

「はい」
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「俺は、正直……アイツの事を忘れることは出来ないし、
　忘れるつもりもない」

　それは紛れも無く純一の本心。

　そして美春――かつて愛したミハルとの約束でもある。

「……はい」
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「でも、あれから色々あったし、時間もけっこう経った。
　そして今はこうして美春が俺の隣にいてくれてる」

　純一はそっと美春に向き直る。

「まぁ……そのなんだ『絵に描いたバナナより目の前のヒョ
　ウバナナ』ってことかな？」

「どういうことですか、先輩」

　美春は、苦笑を浮かべながら純一を見上げる。
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「確かに、アイツとの事はいい想い出だ。けど、想い出は
　想い出でしかないんだ。絵に描いた綺麗なバナナみたい
　にここにはない。だから、俺は今ここにない昔の想い出
　より、今ここにいる美春を大事にしたいと思ってる」

　それに、と純一は頬をかきながら続ける。
#NEXT

「俺はもう美春のことが好きになっちまったんだ、心配す
　ることなんてないさ」

「朝倉先輩……」

「なんだ、文句あっか？」

　恥ずかしさを紛らわすように、純一はぶっきらぼうにい
うと視線を泳がせる。
#NEXT

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「いいえ。ありがとうございます、先輩。おかげで美春も
　俄然ヤル気になりましたよ！」

　ようやく美春にいつもの笑顔が戻る。

「でも先輩、ミハさんが綺麗なバナナってことは美春はヒョ
　ウバナナってことなんですか？！」

「ん？　まぁ言葉の綾というやつだ」

「うぅー、ヒドいです。確かにいい具合に熟したヒョウバ
　ナナの中身は美味しいですけど、美春にはマダラ模様な
　んて、あーりーまーせーんっ！　美春だってお肌には気
　を使ってるのですよ！」

　わーわーと美春は純一に猛抗議を始める。
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　しばらく付き合ってやると、終いには美春は自分のヒョ
ウバナナ観を語りだした。

　このまま放っておくと永遠に終わりそうもないので、純
一は実力行使に出ることにする。

「美春」

「なんです？　先輩」
#NEXT

　一瞬だけ止まった美春の額に純一はそっと口吻をする。

「……っ！」

　美春は耳まで真っ赤になりながら額に手を当てる。

「あ、朝倉先輩？！　不意打ちはズルいです……」

「はっはっは、いつまでもやかましいからだ」

　純一はしたり顔で胸を張る。
#NEXT

「じゃ、じゃあ朝倉先輩、今度はその……唇に」

「却下」

「えー、どうしてですかぁー」

「うるさいうるさい、さっさと帰るぞ。着替えてこい」

　純一は頬に熱さを感じながらまくし立てる。

「うぅ……ご無体なぁ」
#NEXT

　まるでお預けを食らったわんこのように、上目遣いで、
オマケにちょっぴり涙目になりながら純一を見つめる美春。

「…………」

　そんな美春の様子に純一は心動かされなかったかといえ
ば嘘になるが、ここでしてしまっては収まりがつきそうに
ない。

　ここは我慢である。
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「美春さんよ」

「はいっ！」

「残念ながらキスはまた今度だ」

「えぇー……」

「その代わりといっちゃなんだが、帰りに桜公園でチョコ
　バナナ接待をしてしんぜよう」

「ほ、ホントですか？！　朝倉先輩」

　ぱあっと美春の目が輝き出す。
#NEXT

「わぁー、なに食べよっかなー。夢の『メニュー表完全制
　覇』なんてどうです？　朝倉先輩♪」

「それは勘弁して欲しいんだが……」

　相変わらずわんこのように喜んでいる美春を尻目に、純
一はそっと財布の中身を確認するのだった。
　
　
　
　――Fin
#NEXT

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